日米協会の歴史
1970年後半頃、ジョージア州在住の日本人はおよそ1千人程で、日本企業は55社程度でした。それから80年代、90年代にかけて日本人の数は大幅に増え、2000年代に入ってもまだ増え続けています。日本経済研究センターの調べによりますと、1975年における北米への日本の投資額は45億ドルでしたが、1979年には85億ドルに達しました。 これは、ジョージアにおける日本経済の役割と日本人の存在が、その後も重要なものにあるであろう事を物語っていました。 1979年に一部のビジネスマンや大学関係者が集まり、ジョージア州民に日本社会、文化、政治等の知識を広める目的でジョージア日米協会を発足しました。ジョージア州在住の千名余りの日本人が加入、更にジョージア州の歴史や伝統を広めるという目的も加えられました。計画実行委員会は日本について造詣が深く、滞日経験もある人々で構成されました。両国民の交流が深まるにつれ、言語、文化の違いから来る誤解やコミュニケーションの不足が危惧されたため、協会の使命としてこの文化的ギャップを補うための各プログラムや行事を提供するようになりました。 また州の成長・発展と共に、ジョージア州在住の日本人の暮らしをサポートする活動も実施してきました。 計画委員会は、アン・ガッジー氏、アレン・ジャッド氏、マイケル・マクマレン氏、ジョージ・ウォルドナー氏で構成され、コカコーラ社のイアン・ウィルソン氏による多大なる援助を受けました。また日本からジョージア州に最初に投資を行った日本企業の一つである村田エリー北アメリカ社の社長、フレッド・チャノキ氏も活躍、1980年に日米協会の幹部創立会がアトランタで開かれ、イアン・ウィルソン氏が会長、フレッド・チャノキ氏が副会長、ファースト・ナショナル・銀行のD.レイノルド・リドル氏が会計係、ジョージ・ウォルドナー氏が事務局長に就任、更に当時州知事だったバズビー氏および川出日本総領事が名誉会長に就任しました。 | 協会の目的は、以下の通りに決定しました。
ジョージア日米協会は、ナショナル日米協会(NAJAS)にも加入しました。この母体団体は、ジョージア日米協会と同様の非営利、非国営の文化、教育組織である米国の他の13の日米協会に援助しています。1981年にベティ・ウェルトナー氏がジョージア日米協会の初の常任事務局秘書となり、83年まで勤務しました。 当協会は、1980年の9月からビジネスランチョン、レセプション、ゴルフ・トーナメント、年次晩餐会等広域に渡って活動して来ました。1981年からジョージア州立大学と提携し、“ジャパン・キャラバン”と題する教育セミナーも開始しました。また女性会員の活動として、NAJASの局長を招いた昼食会やお茶会、2ヶ月に一度、文化的活動を行う日米婦人の会合「友達クラブ」などがあります。その他、初級、中級の日本語のクラスも定期的に開講、日本語の普及に努めています。 ジョージア日米協会は、職員と多くのボランティアに支えられ、日本とジョージア州の相互理解、コミュニケーション、友好関係を促進する努力を続けています。 歴史プロジェクト ジョージア日米協会30周年記念の一環として、当局がジョージア州と日本のかけ橋として遂行してきた事業内容を紹介する30周年史が作成されました。 日本がジョージア州のみならず南東部一帯に及ぼした文化・経済の影響などの内容を中心に35分のドキュメンタリーとなっています。 過去の歴史的イベントやプログラムのビデオや写真、日米協会に深く関わりあった方々のインタビューなどが満載、ジョージア州と日本の歴史や両者共通の文化・経済の親密な関係などに焦点をあてた素晴らしい内容となっています。このDVDの購買をご希望の方は、ジョージア日米協会までご連絡ください。 |